米ニューヨークの伝説的なクラブの一つ、ライムライトをはじめ、クラブUSA、パラディウム、トンネルなど、いくつものナイトクラブを経営していたピーター・ガティエン。現在68歳の彼が、自身の歩みとコロナ危機よりももっと前の時代のニューヨークについて語り始めた。
流行は常にピーター・ガティエンが運営する大型クラブのどこかにあった。1990年代の全盛期、ガティエンは巨大な帝国を取り仕切っていた。タイムズスクエアのクラブUSAは滑り台のある、ジャン=ポール・ゴルチエとティエリー・ミュグレーが内装を手掛けた大人の遊び場だった。14丁目には騒がしいパラディウム(現在はニューヨーク大学の寮)。ウエストサイドには、VIBE誌がヒップホップの聖地と呼んだトンネルがあった。最も悪名高かったのが、チェルシーの6番街と20丁目の角に立つゴシック様式の教会を改造したライムライトだ。そんなガティエンはジェイ・Zのラップの一節にも登場する。「Me and my operation runnin New York night scene with one eye closed like Peter Gatien(俺たちがニューヨークのナイトシーンを牛耳ってる、片目のピーター・ガティエンみたいに)」
・超満員のダンスフロアと中二階から下りる滑り台(1992年、クラブUSAで撮影)
幼少期に事故で片目を失ったガティエンは、カナダのオンタリオ州出身。製紙業の町で育った労働者階級の子供だった。最新の回想録『The Club King(原題)』に綴られた物語は、ハリウッドで映画化される可能性がある。すでにニコラス・ピレッジ――映画『グッドフェローズ』の脚本で有名――による脚色が進行中で、製作はAmazon Studiosが手がける予定だ。ガティエン本人も、ヒップホップにおけるトンネルの立ち位置をテーマにしたサシャ・ジェンキンス監督のドキュメンタリーの製作に関わっている。
「これだけは覚えとけ」とガティエン。「あの当時のトンネルは、ただのナイトクラブじゃない。ヒップホップ業界そのものだったんだ。店にはデカい看板があったんだ。ある時、トゥパックが外に出て来たと思ったら、銃を出してバン! バン! バン! は? 一体何事だよ? 奴は『お前らみんなぶち抜いてやる!』と言ったわけでもない。ただ看板だけ撃って、そのまま歩き去った。口じゃ言い表せないぐらいクールだった」
黎明期のギャングスタ・ラップについてガティエンは証言する。
50セントは? 「奴は当時まだガキンチョだった。15か16だったはずだ。バウンサーと揉めてたのをなんとなく覚えているが、店に入れてたよ」
リル・キムは? 「彼女の取り巻き連中はいつも最悪だった……問題児だったね」
彼は著書の中で、ビギー(ノトーリアス・B.I.G.)が死んだ夜のことを書いている。静かに涙を流す2000人の群衆の前で、ファンクマスター・フレックスが「Hypnotize」を披露した。
トンネル以外の彼が所有するクラブにも、プリンスからアクセル・ローズまで、音楽界の様々なカリスマが足を運んだ。
才能を見抜く隻眼
ガティエンが6歳のときに片目を失っていなかったら、こうしたことは何ひとつ起きていなかっただろう。語り継がれている都市伝説では、ホッケーの試合で失明したことになっているが、実際は野球が原因だったという。校庭で子供たちが折れたほうきをバット代わりに遊んでいたところ、1人の手からほうきがすっぽ抜け、まるで槍のようにガティエンの左目に刺さった。
「この話をするのはずっと嫌だった」と彼は言う。だがトレードマークの黒い眼帯をつけるようになって「たちまち選ばれし軍団の一員」になり、ジェイムズ・ジョイスやバズーカ・ジョー、スネーク・プリスキン、デヴィッド・ボウイ演じるジギー・スターダストといったイカした著名人/キャラクターたちの仲間入りをしたのだ(弊誌とのインタビューの間、ガティエンはクリスチャン・ディオールのエレクトリックブルーのサングラスをかけていた。「眼帯は最近はもう全くつけないよ」)
事故の後、ガティエンは学校から示談金を受け取り、その一部で1971年にPant Loftというデニムショップをオープンした。店の売上でのちにバーを購入。それが彼にとって最初のナイトクラブだ。土曜の朝のアニメ番組『The Ant and the Aardvark(アリとツチブタ)』にちなんで、店の名前はアードヴァークと名付けた。才能を見抜く審美眼もすでに研ぎ澄まされていた。彼の記憶によれば、最初にブッキングしたギグの中には、新進気鋭のローカルバンド、ラッシュもいたそうだ。
高校時代の恋人と結婚し、2人の娘を授かる。だがアメリカが、そしてディスコが彼を離さなかった。ほどなく彼はオンタリオとアメリカのサウスフロリダを行き来するようになり、そこでRum Bottomsという寂れたバーを購入し、ライムライトとしてオープンさせた。審美眼はここでも発揮され、グレイス・ジョーンズ、グロリア・ゲイナーがクラブを賑わせた。ヴィレッジ・ピープルという変わった連中に山を張り、公演4カ月前にブッキングすると、公演日を目前にして「Macho Man」がラジオで大ヒット。いきなり「全米一アツいアクトを主催した」と、ガティエンも本の中で書いている。
1978年、彼はジョージア州アトランタにもライムライトをオープンし、のちに「南部のスタジオ54」と呼ばれるようになる。Netflix『タイガー・キング』ばりの派手さで、ガティエンはガラスのダンスフロアの下に囲いを作り、そこに本物のヒョウを入れた。今なら彼もこのアイデアには苦笑いだが、巨大なネコがダンサーたちの足元で歩き回るさまは、マスコミや世間を騒がせる彼の天性の才能を予見していた――成功に導き、のちに破滅へ向かわせる才能を。
カルチャーの誕生
1983年、ガティエンはついにニューヨークに進出した。チェルシーの老朽化したホーリー・コミュニオン教会をわずか160万ドルで購入。クラブは出だしから満員御礼で、マドンナからドナルド・トランプまで(「あいつはいつもダサかった」と苦笑いを浮かべながら言った)、狂乱の80年代を代表するメンツはみなここに集まった。フロリダとアトランタで彼は、ディスコが繁盛するためのカギはゲイの客の比率にかかっていることを学んでいた。「いろんな奴らを呼び込むにはゲイが必要」とガティエンは言う。「彼らは場を盛り上げてくれる。時々、ブルックリンや郊外からガラの悪い連中も来ていたが、すぐに打ち解けて『こいつら悪い奴らじゃないぜ』ってなるんだよ」。 そこへAIDS危機が襲い、街は静まり返った。誰もパーティーどころじゃなかった。
・ジョージ・マイケルと一緒に(1987年頃、ニューヨークにて)
90年代初頭、ドリンクを回し飲みしただけではウイルスは伝染しないと人々がAIDSに対して理解を深めるようになると、状況は良くなった。しかし、ライムライトからスターたちの姿は消え、店内の人影はまばらだった。それが結果的に新しい世代に扉を開いた。
次にクラブにやってきたものは華やかさには欠けたが、エネルギッシュだった。「僕が2回目のエレクトロのライブをやったのがライムライトだったんだ」とモービーはローリングストーン誌に語った。「1990年のことだ。僕は音楽を始めたばかりの、まだ純真無垢な、大都市で右往左往している、みすぼらしいキッズみたいなもんだった」。 90年代以前は足を踏み入れようとすらしなかったそうだが、「88年か89年には、ライムライトは誰からも忘れ去られた侘しいナイトクラブになり果てていた。それでマイケル・アリグやロード・マイケルが出てくるようになったんだよ」
パーティーのプロモーターをしていた2人のマイケルはナイトライフの転換期を象徴していた。2人のパーティーからいわゆるクラブ・キッズと呼ばれる、派手な衣装に身を包んで暴れ回る、エクスタシーをキメたダウンタウンの若者たちが登場した。そして当時ロンドンから入ってきたレイブのカルチャーと上手く組み合わさった。
ユートピアに忍び寄るジュリアーニの魔の手
この新しいシーンを、モービーはこう描写する。
「誰もが仲間として受け入れられた。ライムライトに足を踏み入れればブルックリンの筋肉隆々な男たちやドラァグクイーン、ファッション工科大学や郊外から来たキュートなレイバーもいる。アジア系にアフリカ系、白人、ストレート、ゲイ。今思うと本当に貴重だった。でもあの当時は、あれが普通だと思っていた。外の世界はAIDSとコカインで荒んでいて、僕らはナイトクラブでささやかなユートピアを作っているんだってみんな受け入れてたんだ」
「昔はもっと平等主義だった」とガティエンは言う。「俺はボトルを6本入れるような客よりパーティーに貢献してくれる客を大事にした」 今日の荒んだシーンを思い浮かべながら、彼はこう言った。「1OAKみたいなところに行くと、テーブルに案内されるだけで1000ドル取られるんだぜ。ああいう場所からは何も生まれない。この先もな」
「ピーターは市民ケーンとかジェイ・ギャッツビーみたいな謎めいた人だった」と、当時のガティエンについてモービーは言う。「ナイトライフを端から眺めているのを見かけるだけで、誰かとしゃべっている姿は一度も見たことがない。人と絶対に交わらないんだ。いつもあの眼帯をつけていて、遠い存在というか、威圧的というか……007の悪役みたいな感じだった」
1992年、ガティエンはわずか9カ月間でがむしゃらに帝国を広げた――落ち目だったパラディウムとトンネルの賃貸契約を取得し、クラブUSAを立ち上げ――どこも客でいっぱいにし、何百万ドルを大儲けした。そこへ現れたのがジュリアーニだった。
1993年、ルディ・ジュリアーニ氏がわずか5万票差でニューヨーク市長に就任し、市庁舎にやってきた。その年、スタテンアイランドをニューヨーク市から分離する住民投票に勢いを借りた形だった(スタテンアイランドの人々はジュリアーニ氏を愛している)。「生活の質」という新たな取り組みの一環で、ジュリアーニ氏はホットドッグの売り子から大道芸人、信号を無視する歩行者、ストリートアーティスト、車の窓拭きまで取り締まった。
「すると、窓ふき男が足りなくなったのさ」とガティエンは言う。「当時のナイトライフの顔は俺だった」。ジュリアーニ氏にとって格好の的だった。
ジュリアーニ氏の徹底的な攻撃
ジュリアーニ氏の伝記を執筆し、1994年の「生活の質」演説の草稿作成も手伝っているフレッド・シーゲル氏は「当時の街は行政の手に負えない、という感じでした」と語る。「ライムライトやパラディウムは何でも好き勝手できる無法地帯だと思われていました……近隣住民は、こうしたクラブに出て行って欲しかったんです」
ニューヨーク南地区連邦検事局時代から、度を超すことで有名だったジュリアーニ氏が、ガティエンへの攻撃材料を見つけるのに、そう手間はかからなかった。
ガティエンがいた世界は評判の悪い人物だらけだった。そのうちの1人がマイケル・アリグだ。1996年、アリグはヘロイン、コカイン、ロヒプノール、ケタミンをいっぺんに摂取し、クラブ・キッズ仲間のエンジェル・メレンデスを殺害した。相当量のパイプ洗浄クリーナーが使われ、バラバラ死体は数カ月後にスタテンアイランドに打ち上げられた。その残忍な殺され方は、90年代指折りの凶悪事件に挙げられた。
事件を起こすずっと前にガティエンに解雇されていたことは重要ではなかった。メディアは一気に獲物に飛びついた。「奴のせいで、(クラブ・キッズ)ムーブメント全体に傷が付いた」とガティエンは言う。17年間刑期を務め、2017年に釈放されると、再びニューヨークでパーティを主宰し始めた。元従業員の彼とはもう関わり合いになりたくない、とガティエン。ただ、アリグの盛衰を描いた2003年の映画『パーティー・モンスター』で、ディラン・マクダーモットが自分を演じたことに関してはガティエン本人も「まんざらでもない」と認めている。
ガティエン自身も筋金入りのドラック中毒だったことが、さらに事態をややこしくした。フォーシーズンズのスイートルームを借り切って、連日どんちゃん騒ぎしたこともあった。最終的にはそういうことからは足を洗ったが、のちに彼の放蕩ぶりを示すクレジットカード明細が法廷で公表され、彼の有利な方向には働かなかった。
警察当局はクラブを「麻薬のスーパーマーケット」と評し、刺激的なそのキャッチフレーズは嫌になるほど新聞で多用された。ニュージャージーの10代の青年がライムライトでのパーティーの翌朝自宅で亡くなったという事故もあった(検視の結果、ライムライトとは関係のないことが判明)。「あの当時、ニューヨーク・ポスト紙は文字通りジュリアーニのニュースレターだった」とガティエン。「ポスト紙は俺がまるでジョン・ゴッティ(NYの伝説的マフィア)か何かみたいに攻撃してきた。毎日容赦なかったよ」 。とりわけ、今は亡きポスト紙のコラムニスト、ジャック・ニューフィールド氏は、どこかのクラブで犯罪が起きれば何でもガティエン氏を攻撃するネタに仕立て上げた。
米国の地を追われたガティエン
麻薬取締局の捜査官がライムライトをうろつき回り、些細な麻薬取引を取り締まった。連邦検事局は店の常連や小物のドラッグディーラーといったゴロツキをしょっ引き、その中に含まれていた薬漬けのアリグと、釈放を餌にガティエンに不利な証言をするよう取引した。
1998年に公判が始まる頃には、ガティエンが大規模な麻薬組織を主導していた凶悪犯罪のボスだと陪審を納得させられるに違いないと、検察は手応えを感じていた。
裁判は最初から虚言のオンパレードだった。警察に寝返った証人は再び寝返ってガディエンの味方につき、政府から根も葉もないことを言わされたのだと主張した。こちらの意のままになる不良たちを集めようとした検察の目論見は、結局裏目に出た。
62歳のトラック運転手をしていた陪審員は、のちに「証人はみな嘘ばかりついて、一体どう信じろと言うんです?」 と言った。ガティエンは当時マフィアのガンビーノ一家から寵愛されていた有名弁護士、ベン・ブラフマン氏を雇った。裁判が穴だらけだと確信していたブラフマン氏は、弁護側の証人を一切呼ばず、5週間の裁判の後、陪審はわずか数時間足らずでナイトクラブの帝王を無罪とした。
「ピーター・ガティエンの無罪放免は、最も興奮した事件として今も記憶に残っています」とブラフマン氏は言う。彼はその後もP・ディディやドミニク・ストロス=カーン氏の裁判で勝利した。「心の奥で、あの裁判での政府のやり方はあまりにひどいと思っていました」 と彼は言う。それでも、「ピーターの人生の大部分が奪われてしまいました」
その後ガティエンは、あらゆる手を尽くしてセキュリティを強化した。元麻薬取締官まで雇ってクラブを監視させたが、それでも十分ではなかった。定期的に警察から手入れや営業停止を食らい、最終的には高額な裁判費用のせいで手も足も出なくなった。そこを税務署が狙った。
1999年、彼は脱税で有罪を言い渡され、100万ドル以上の追徴金を払った――額に関して本人は、当時の収入を考えると丸め誤差だと言っている。司法取引の結果ライカーズ刑務所に2カ月収監され、2003年、ガティエンは強制出国させられた。30年以上もアメリカに住んでいながら、彼は一度も市民権を取ろうとしなかった。妻と一番下の子供をニューヨークに残したまま、彼は突然一人きりで全ての出発点、カナダに戻った。手元に残ったのは、弁護士からもらったポケットの中の500ドルだけだった(のちに彼はトロントで家族と再会した)。
カルチャーを失ったニューヨーク
「政府が敗北するとどうなるか、という完璧な見本です」とブラフマン氏。「彼らは負けるのが嫌い。そして、必ず勝つ方法を見つけて来るんです」
ガティエンも、首を振りながらこう言う。「もし無罪になった時からやり直せるなら、間違いなくさっさと店を畳んで街から出ただろう」
今回の記事でジュリアーニ氏にも複数回コメント取材を依頼したが、返答はなかった(ただし1度だけ、誤発信されたと思われる7分間の通話で、女性のアシスタントと何やらコロナウイルス関連の昇進について話し合う声が聞こえた)。
何年も流浪の地トロントで過ごし、現地のクラブのアドバイザーを短期間務め、いくらか成功を収めた後、ガティエンはニューヨークに戻ることを許された。この3年間、彼はトロントとニューヨークを行き来し、ヘルズ・キッチンに住んでいる。休みの日はダウンタウンに住んでいる一番年上の娘で映画監督のジェン・ガティエンと落ち合ったり、セントラル・パークを散歩したりして過ごしている。ブルックリンは悪くないが、再びあの世界に戻るつもりはないと言う。「クラブビジネス? あれは若い奴らのやることだ」と本人。あんな結末になった割には驚くほど落ち着いていますね、と彼に言った。彼の同業者たち、例えば脱税で捕まったスタジオ54のイアン・シュレーガー氏はオバマ前大統領から恩赦を受け、現在はホテル王として君臨している。「”俺はなんて哀れな奴なんだ”と感じているなんて、思われたくないからね」とガティエンは言う。
「ピーターは相当悔しい思いをして来たと思います」とブラフマン氏は言う。2人は今も親しい仲だ。「彼は全てを奪われ、国から追放されたんです。でも年を重ねるに連れて、ピーターも丸くなったんでしょうね。ピーターはたくさんのカルチャーと才能をこの街に残してくれたと思います」
元市長の「生活の質」のスピーチライター、シーゲル氏ですら、今のニューヨークは「かなり味気ない」と言う。ということはガティエンにも、ジュリアーニ氏に不当に扱われたと言う権利があるのでは? 「いいえ」とシーゲル氏は言う。「ナイトクラブはドブのようでした」 。そもそも、ライムライトの様子をご存知なんですか? 「一度だけ行ったことがあります……どういうものか一度見ておきたくて」。いかがでしたか? 「退廃の一言ですね」
だが退廃こそが街に輝きを与えていたのかもしれない。「ニューヨークを機能させていたカルチャーがクラブだったんだ」とガティエンも言う。「それが今欠けている――あの生のエネルギーってやつが。称えてしかるべきだ。ひとつの時代が終わったんだよ」
本記事は「Rolling Stone Japan」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。
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April 26, 2020 at 04:15PM
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