9日からツイッター上で盛んに投稿され始めた「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグ。検察官の定年延長を可能にするこの法案への抗議は、その日のうちに100万ツイートを達成、その後も伸び続けています。
きゃりーぱみゅぱみゅ、秋元才加、大久保佳代子、城田優、SKY-HI、浅野忠信、Chara……お、Chara(by 久保田利伸)etc。人気作家や漫画家、映画監督などに続き、普段はあまり政治的なツイートをしないこれら芸能人・アーティストからの投稿が相次いだことも、ツイッタートレンド1位となる大きな要因だったのではないでしょうか。
これらの方々のツイートは「声を上げてくれてありがとう!」と賞賛で迎えられる一方、「幻滅しました」「政治的なことツイートして欲しくない」「内容わかってます?」といった否定的な意見も多く呼び寄せています。そしてリプ欄にて行われる本人不在の喧々囂々言論バトル……まさに「私の〜リプライ欄で〜もめないでください〜そこに私はいません〜」状態。芸能人が政治的な発言をするたびに起こるこのざわつきや不協和音の正体は一体なんなのでしょうか。千の風を感じながら考えてみたいと思います。
芸能人が「政治的発言」をした時のざわつき問題
「人間だから間違えや失敗は誰にでもあるだろう。一生懸命やった結果だったら人はいつか許してくれるかもしれない。でも汚らしい嘘や狡は絶対に許されない。カビだらけのマスクはその汚らしさを具現化したように見えて仕方がない」
こちら4月22日、なんてったってアイドル小泉今日子さん(アカウント名は『株式会社明後日』)が政府配布の布マスク不良品ニュースとともにポストしたツイート。先ほどの「#検察庁法改正案に抗議しますツイート」と同様に、「よくぞ言ってくれた」「さすがKYON2」という賛と「極左の活動家」「捏造にも気づけないなんておいたわしい」「終わったタレントですね」という否が入り乱れ、中には「狡って、不倫も狡でしょ」という、とばっちりのようなコメントも。
小泉今日子さん ©文藝春秋
さらにこの「KYON2発言」が大きく知られるきっかけとなったのはこの記事。(「小泉今日子ら芸能人の“政権批判”が、どこか空虚な理由」日刊SPA! 2020年5月5日 https://nikkan-spa.jp/1664969)
「根拠となる自らの立場を明らかにしていない」「政治的な思想なり態度なりを表明したことのない人が、大きな事件が起きると、いきなり権力を批判しだしたりするから、唐突感が否めない」etc、綿々とつづられるKYON2発言に対する「違和感」にこちらも賛否両論、特に芸能関係者から批判の声が多く上がっていました。すでにこの辺りから「芸能人が政治的発言をした時のざわつき問題」は燻っていたのであります。
小泉今日子さんのツイートのどこに「違和感」を覚えたのか?
このような評論自体もそれこそ「自由」であり、もちろんその是非を問うようなつもりは毛頭ありません。ただ今回敢えて引用させていただくのは、「芸能人が政治的発言をした時にざわつく人々」の声をわかりやすく代表しているように思ったからです。結構色んな人が言及してる布マスクへの不満、それがなぜ小泉今日子だと「違和感」となるのか。その「違和感」の根底には何があるのでしょうか。
小泉さんの発する「言葉の強さ(「汚らしい嘘や狡」)」に「戸惑う」と表現されていたこちらの記事。言葉の強さというのは、つまりは「怒り」です。たとえばこれ小泉さんが
「本当にマスクがカビだらけだとして、私の大事な人たちがそれを使うとしたら心配でたまらないし、とても悲しいです」
とツイートしていたらどうでしょう。絶対言わないと思いますけどどうでしょう。少なくとも「戸惑い」や「違和感」という表現にはならなかったのではないでしょうか。なぜならこっちは「哀」だから。「怒」ではなく「哀」。同じ「マスクへの不信感」を訴えているのに、そのアウトプットが「怒」なら「違和感」になり、「哀」なら「共感」となる。
芸能人は「喜」「哀」「楽」は許されても、「怒」は許されない
これってもう、政治的思考以前の問題なのではないかと思うのです。芸能人は政治発言云々の前に、とにかく「怒り」を表に出すこと自体が許されないんじゃないかって。確かに「厚木の小泉パイセン」が怒っていると考えるとめちゃめちゃ怖いですけど、もちろんそういう意味ではないです。「悲しい」とか「辛い」と言われると「そうだよね〜」と憐れみのような、若干上からものも言えますが、「こんなのおかしいですよね」と声を荒げられると、怯んでしまう。それは、たとえが正しいか分かりませんが、かわい〜となでていた犬に急に吠えられたような感覚かもしれない。人々は芸能人が「怒」を表明するとなぜか突然怯むのです。
「喜」「哀」「楽」は許されても、「怒」は許されない。芸能人に対する歪んだ感覚は、彼ら彼女らが何らかの「怒」を表明したときに一気に溢れかえります。「#検察庁法改正案に抗議します」とツイートしたきゃりーぱみゅぱみゅさんは、結果的にそのツイートを削除することとなってしまいました。「社会のことなんか何も知らないくせに」「やれやれ」という見下すような呆れるようなリプや「歌手やってて知らないかもしれないけど」とありがたいご高説ぶっかましてくるものもあり、またそこでファン同士が争うのも看過できなかったのでしょう。ポップスターは辛いですね……。
ツイッターで芸能人にマウントを取ってしまう人々
ツイッターは平場です。普段は混じり合うことのない芸能人に直接意見が言える(ような気持ちになれる)装置でもある。そこが危ういところでもあり、「平場」だからこそ、人気も才能もある芸能人と比べて「劣っている」自分が浮き彫りとなっているように感じ、そのコンプレックスゆえ「こいつより社会をわかってる」「政治のこともわかってる」と本人にマウントかけなければ気が済まなくなってしまう人が出てくる。人との違いを「個性」ではなく、「上下」で捉えてしまう。
それは「批判側」だけではありません。芸能人の「怒」に同調する人は同調する人で「ツイートだけじゃなく行動を!」的な圧力をかけてくる。何かアクションを示さなければ「おかしい」と思うことをツイートすることさえ許されない圧力。きゃりーさんがツイートを削除せざるを得なくなった要因は、ただ攻撃的な批判リプが多かったからだけではないと思います。
芸能人は「コンテンツ」であって「人間」ではない
芸能人の自由な発言、特に「怒りの表出」に対して、「批判」にしろ「擁護」にしろ、とにかく尋常じゃない反応を見せてしまう人々の根底にあるもの。そこには「芸能人は私たちを楽しませるためにのみ存在している」という多大な思い込みがあるような気がしてなりません。そのタレントが発する思考と相容れなければ露骨に馬鹿にする。その思考が自分に合うものであればはしゃぎまくり「もっとやれ」と強要したり実際に行動しろとけしかけたりする。つまり「芸能人は一般人を楽しませるコンテンツ」であり、「人間」ではない。思想信条の自由を約束された「人間」ではないわけです。
「芸能人はのんきに●●つなぎとかしてていいよね」と「芸能人なら芸能人らしく私たちを楽しませろ」。コロナ以降の芸能人炎上案件の中には、この二つのアンビバレンツな感情に忖度しようとするあまり生まれたものも少なくないと思います。この相反する感情も結局は「芸能人を『人』とカウントしない」という同一ルールに則っている。芸能人に「怒り」を認めないのは、彼ら彼女らを「人」として認めていないから。「自分たちを楽しませる」以上でも以下でもない、それが芸能人の怒りに「怯む」人たちが考える、芸能人の在るべき姿なのでしょう。
「怒る理由もわかる」と芸能人を擁護する側も……
小泉さんやきゃりーさんに対する「先の見えない自粛生活を強いられてストレスがたまってるんだよね」「エンタメ業界は特に今大変だから、怒る理由もわかる」といったような擁護の声も多くあります。「私たちは芸能人をちゃんと『人』として見てますよ」というやつです。しかし思うのですが、そもそもなぜ怒るかなんて、それこそ今日子の勝手じゃないですかね、カーカー。「ストレスが溜まってイライラしてる」とか「役者仲間の多くが窮地に立たされてるから」とかわかりやすい理由を当て込んで、落ち着きたいのはあくまで視聴者側なのでは。
きゃりーさんがツイッター削除の理由をメモにして投稿していましたが、その中にあった「自分たちの未来を守りたい」「自分たちで守るべきだと思い呟きました」という一文。ストレスがたまっているからとか、エンタメ業界が窮地に陥っているからとか、そんな「しっくりくる」理由ではない、あのツイートはもっと感覚的な危機を覚えてのことだったのではないかと、私も勝手に推測しました。それを立場や属性だけに負わせてわかったような口きいてくれるなよと、これは私じゃないです、私の心の「厚木の小泉パイセン」が申しております。
浦沢直樹さんや秋元才加さんにぶつける怒りの正体
そして芸能人の「怒」より、人々が怯むことが実はあります。漫画家の浦沢直樹さんが安倍首相が小さいマスクをつけているイラストをツイッターにアップした時の大炎上と、秋元才加さんがマスク2枚を手に真剣な表情でただ踊っている動画への大ブーイングを見て、私は思いました。小泉さんの「汚らしい嘘や狡」みたいなストロングスタイルではない、どちらも強烈な批判とは言い難いものだったのになぜあそこまで人々は怒りや失望を二人にぶつけたのか。
それはおそらく、あの「ただの似顔絵」「ただの真顔のダンス」からわかりやすい意味が汲み取れなかったからではないでしょうか。意味はわからないけど、いや意味がわからないから、なんかバカにされてる気がする。見てる側が上に立てなくて、イライラしてしまう。それは「怒り」の表明よりもっと強烈にコンプレックスを刺激するのかもしれない。芸能人は「自分たちを楽しませる」だけじゃない、さらに「わかりやすい『記号』」としても存在しなければならないのです。大変ですね。
芸能人に「親近感」を覚えるのは大好きだけど、いざ芸能人が「人間」であろうとすると牙を剥く、俺たちゃ勝手な一般人です。しかしながらコロナは確実に芸能人から「楽しくしなきゃ」「みんなを喜ばせなきゃ」という鎧を脱がせつつある。どんどこ増えていく有名人による「#検察庁法改正案に抗議します」ツイートを見て、そんなことを思いました。
(西澤 千央)
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May 11, 2020 at 06:30PM
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