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なぜ日本ではアーティストの政治的発言がタブー? 星野源「コラボ動画」から考える - 伊藤聡 (1/2) - BLOGOS

4月上旬、ミュージシャン星野源がSNS上で発表した楽曲「うちで踊ろう」に合わせて、首相が自宅でくつろぐ姿を撮影した「コラボ動画」が反響を呼んだ。国会でも議論となったこの出来事をきっかけに、表現者と政治の関係について意見が交わされたのを見聞きした方も多いだろう。音楽家は、みずからの政治的スタンスを表明すべきか。意思表示したい人だけがすればいいとの意見がある一方(*1)、立ち位置の明確でないポップソングは、政治利用されてしまうとの見方も述べられている(*2)。

むろん、政治的発言をタブーとしない成熟した社会は理想的だが、表立っての意見がはばかられる日本では、そのハードルはまだまだ高い。わけても、星野のように人気が高く、5大ドームツアーのような規模の大きい活動をする歌手であれば、雇用するスタッフも多く、責任も大きい。その立場上、思想信条をはっきりと発言するリスクもよく理解できる。なぜ日本ではアーティストの政治的発言がタブーなのか。この難しい問いに対してヒントを探るべく、アメリカの事情と比較するのが本稿のテーマである。

米大統領選の音楽利用で摩擦

音楽と政治の関係性で興味深い事象のひとつに、米大統領選のキャンペーンソングがある(大統領選の候補者は、テーマソングを選んで遊説先や集会で使用する習慣がある)。

過去の例を挙げれば、1984年、ロナルド・レーガンは、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を大統領選のキャンペーンに使用しようとしたが、アーティスト側に断られた(*3)。またドナルド・トランプは、ローリング・ストーンズやR.E.M.の曲を集会で許可なく使用して抗議を受けており(*4、5)、ファレル・ウィリアムスは自身の曲「Happy」を使用したトランプに対し、弁護士を通じて取りやめるよう伝えている(*6)。これらアーティストの音源は誰にでも入手可能であり、政治的な場所での楽曲使用は当然起こり得る。

Getty Images

ミュージシャンが自身の楽曲を集会等で使用されることを警戒するのは、彼らがその政治家を公に支持(endorse)しているとの誤解を避けるためである。こうしたケースにおける音楽家の立場は思いのほか弱い。R.E.M.のマイク・ミルズは「法的手段を用いて止めさせようとしているが、それが叶わない場合でも、楽曲使用を認めていない点を理解してほしい」と発言しているが(*7)、弁護士を雇っても楽曲使用を停止できない可能性があるとは意外だった。

安倍首相を支持している誤解を与えるコラボ動画

星野のケースを考えた場合、「誰か、この動画に楽器の伴奏やコーラスやダンスを重ねてくれないかな?」と、あらゆる人の参加を認めている以上、ひとりの政治家が呼びかけに答えて動画を投稿する行為そのものについては、それを止められない。今回、星野は首相の「コラボ動画」投稿について、事前連絡の有無についてのみ事務的に言及しているが、これは星野がアーティストとして現政権を公に支持しているという誤解を避けるための声明であり、現在の彼の立場で可能な最低限の線引きである。

しかし、この動画が数多くのミュージシャンによって広がっていったという当初の経緯を知らない一般の人びとに対して、くだんの「コラボ動画」は、星野が首相を公に支持しているような誤解を与える可能性が十分にあり、星野はほとんどもらい事故のような形で難しい立場に立たされてしまったことになる。

なぜ日本では公の場での政治的発言がタブーなのか。ただちに明確な答えを出すことは難しいが、たとえば精神科医の斎藤環が、参議院議員福山哲郎との共著『フェイクの時代に隠されていること』(太田出版)で指摘している日本の選挙スタイルの特殊さは、理解のきっかけになる。

同書で斎藤は次のように述べている。「氏名を大書きしたタスキを掛け、白手袋をはめ、駅前では市民に頭を下げつつ自らの名前を連呼し、選挙カーで街を練り歩き、当選すれば万歳三唱でダルマに眼を入れる。こうした我が国の選挙スタイルが、国際的な視点から見て、いかに特殊なものであるか」(*8)。斎藤は、こうした日本型選挙が政治の劣化を招いたと論じたが、これは同時に、日本人が政治を身近に感じられない理由でもあり、市井の人びとを政治から遠ざける要因になっていないだろうか。


これらのほとんど祭儀的といっていい選挙パフォーマンスは、実際の政治やわれわれの暮らしとはまるで関係がないものばかりで、かかる奇妙な風習に対して親しみを感じるのは難しいだろう(個人的にも、スウェーデンの友人が日本へ来た際に、選挙カーを見かけて「あれは何をしているのか?」と不思議そうに質問したことを思い出す)。

「ドブ板選挙」と呼ばれるこのしきたりが最終的に目指すのは、利益誘導にほかならない。これについて斎藤は「国家の利益から党の利益、地元の利益へ、さらには後援会の利益や意向を最優先にせざるを得なくなるような視野の狭窄化が、そこでは生じているのではないか」(*9)と論じている。このように、これまで日本において政治とはおおむね陳情と動員であったし、そうした利益誘導のうまみを享受できない多くの一般人にとって、選挙とは「たまに行われる、それほど楽しそうではないイベント」でしかないだろう。結果として、政治に対しても積極的な興味を持ちにくかったのではないか。ここ数年の投票率は、国政選挙でも5割に満たない場合があるなどきわめて低いが、ある部分では致し方ないとも感じている。

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April 22, 2020 at 10:00AM
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